南アフリカ旅行記

ライオンベラーの冒険  野生への道 1 往路編(by ライオンベラーさん)

南アフリカ
 野生動物の観察がしたくてケニヤに行ってきました。仕事の合間で十分な準備ができなかったので不安いっぱいの旅立ちでした。いったいどんな旅になるのでしょう。さあ、未知の大地、動物王国への旅の始まり、始まり 〜〜〜 ・・・ → → → ⇒ ⇒ ⇒ 

(8/13〜8/13)

【旅行時期】2006/08/26~2006/08/26
【エリア】マサイマラ国立保護区
【テーマ】大自然・動物
【投稿者】ライオンベラー

アムステルダム、目の前で持ち物全てをスられたカップル(by shijoさん)

南アフリカ
中欧に滞在後、ストップオーバーでアムステルダムに降り立った。厳寒な中欧と比べるとアムステルダムは幾分マシな気候だった。

 アムスで最も印象的に残ったのは、目の前にいた欧州系のカップルが油断し、自分の目の前で集団スリに遭って呆然としているのを見たこと。

 とある小さなスープ屋で寛いでいると、同じく窓辺でくつろいでいたカップルに4,5人の若い男性達が近づき、二人の直ぐ後ろでペラペラと話し始めた。その間1,2分だったと思うが、その後彼らはゆっくりとカップルから離れ、店から出ていった。

 暫くするとカップルは自分達のカバンがないことに気づき、騒ぎ始めた。店員も近くにいた私も、そしてカップルも、さっきの若い男達にヤラれたことは直ぐに察しがついた。カップルの片割れの男性は店員に食ってかかり、「何故彼らが盗んでいるのに注意しないんだ!」と怒鳴り始めたが、私も店員もあの集団がてっきりカップルの友人達かと思っていた。それ程彼らの演技力が抜群だった。結局カップルは二人分のパスポート、お金、クレジットカード全てを盗まれてしまい、女性は呆然とし、男性は血相を変えて店を出て犯人達を捜したが、もう後の祭りだった。そのカップルがその後どのように対応したのかは定かではない。

 イングランドでもカバードマーケットでディーパックを背負って話に夢中の女性二人組みが、後ろにつけていた大きな黒人男性3人組にカバンを開けられ私が見ているにも拘らず公然と中身をドンドン抜いていったのを目にした事がる。盗みを働いているその黒人と目が合ったが、彼らは自分を睨むだけ、カバンから盗んでいく事をやめようとしなかった。当然ながらそのような事、注意できるはずも無かった。注意する事で自分がナイフで刺されようものなら一大事だから・・・、それは南アフリカで白昼人通りの多い路上で、銃やナイフを突きつけられて脅されているにも拘らず、通りすがりの人たちは助けようとしないのと全く同じ心境である。

 グループやカップルで旅すると、楽しい旅行で買い物や、観光、話に夢中になる事で油断する確率は個人旅行のときよりも相対的に高いはずなので、グループで行く時こそ、引き締めて旅行を楽しみましょう。

【旅行時期】2001/01/02~2001/01/05
【エリア】アムステルダム
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】shijo

南アフリカの世界遺産(by AGTさん)

南アフリカ
ドラケンスバーグ、ロベン島、セントルシアなど、南アフリカを二月あまり周遊しました。この写真はドラケンスバーグの山脈。3000m級の険しい山が連なります。山にはサンの人々が描いた壁画がたくさん残っています。
完全版は 「A GLOBETROTTER -同じ青空の下で-」にて
  • http://www5a.biglobe.ne.jp/
  • ~gustav/globalwalker/

    【旅行時期】2002/05/~2002/10/
    【エリア】その他の観光地
    【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
    【投稿者】AGT

    佐吉meetsホホジロザメ、Sakiti meets Great White Shark.(by 佐吉さん)

    南アフリカ
    南アフリカでシャークケージダイビングをしてきました。
    シャークといっても、スキューバダイビングで見かけるようなハンマーヘッドや可愛らしいリーフシャークではありません。そいつはジンベイザメほど大きくはありません。けれど凶暴なやつです。そう、サメの中のサメ、The king of shark、鮫の代名詞と言われ、映画「JAWS(ジョーズ)」のモデルとなったホホジロザメです。
    ホホジロザメを海に沈めた鉄格子の中から観察するケージダイビングです。
    ここ南アフリカのハマナスを拠点とする近海は、旅行ツアーを組めるほど、高確率でホホジロザメに遭遇できる世界有数のエリアです("本場"と思われるオーストラリア人と米国カリフォルニア人も参加していたんですよ)。

    それは沖合にGeyser Rockという40,000頭からのあざらしの一大群生地があるからです(注:ケープ半島付近にあるシールアイランドとは位置も規模もはるかに違う)。本来は移住生活するホホジロザメもこの圧倒的な捕食対象の数からして留まざるを得ません。

    このあたりの海峡はShark Alley「サメの通り道」という名がついています。Shark Alley自体はそれほどでもありませんが、ここまでの往復路が激しい揺れに見舞われます。船に弱い人は酔い止め薬を用意して、遠くの陸地を眺めているようにしてるとよいでしょう。この間にヘロヘロになってしまうと最後にとどめを刺すのが、アザラシのコロニーから漂ってくる強烈な香りです。腐敗した魚のミンチをペースト状にして土間の漆喰塗り工事をしたような刺激臭です。

    ケージは船の真横に下ろします。上部は水面に出ています。したがってスキューバダイビングのライセンスも不要です。水中マスクやマリンブーツ、ウェットスーツを着るので、沈みやすいようにウエイトをつけてくれます。これら機材のレンタル代も基本料金に含まれています。バスタオルも提供されます。
    私のときはair(空気)の提供はなく、自分で息を止めて潜りました。その場で立った姿勢で潜るだけなので泳げる必要はないです。水への恐怖心がなくケージに足を乗せて静止できるだけの能力があれば充分です。底はケージが細かく組まれているので足が抜け出ることはありません。ただ側面は見やすいように格子の幅が大きいです。出そうと思えば股の付け根まで差し出せてしまいます。ホホジロザメにお食べと言わんばかりになってしまいます。ケージの天井部分に掴まりながら側面の格子につま先部分を固定できる落ちついた心が必要です。

    4〜6人のグループ毎に順番にケージに入りますが、船には専用の更衣室はありません。操縦席のあるキャビン、一段低くなったトイレ前の区画、ウェットスーツをハンギングしている区画、これらの連続した空間とタオル等を駆使して、老若男女一緒に着替えていました。
    ケージインを希望せずに船上から眺めているだけでもOKです。逆に天候、海の荒れ等の事情でケージを下ろさないで、サメの喰い付きシーンを眺めるだけの場合もあります。サメも含めて相手は自然ですから。

    船長はこの世界では神話的な人。彼らスタッフ独自のノウハウも、地理的な好条件に加えて、さらにホホジロザメとの遭遇率を高めています。詳細はここで、
  • http://www.fwt.co.jp/index.php

  • 今回日本から一括手配してくれた旅行会社です。わりとキワモノを扱ってます。

    以下の水中写真は、望遠ズームアップ一切なし! です。サメの巨体全体を捉えようとワイドレンズで、常にワイド側に寄ったまま撮影しました。つまり見たままの彼との距離です。

    I have enjoyed Great White Shark Cage Diving.
  • http://www.sharkcagediving.net/index.html


  • 【旅行時期】2006/09/18~2006/09/19
    【エリア】ハマナス
    【テーマ】大自然・動物
    【投稿者】佐吉

    南部アフリカの旅【7】 南部アフリカで出会った人達(by さすらいおじさんさん)

    南アフリカ
    南部アフリカの人達と接するとき、白人の支配とアパルトヘイト(オランダ語で分離、隔離)の歴史を忘れることはできない。南アフリカは1488年、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスが喜望峰を、1497年には同じポルトガルのバスコ・ダ・ガマがナタールを発見した後1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地を作っている。その後オランダ人が多く移民し入植地を開拓していったが19世紀の初頭に、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスがこの地を占領、多くのイギリス人を移民させ南部アフリカを支配した。1833年にイギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地である南部アフリカにも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたオランダからの移民・ボーア人は反発して、新天地を求めてケープ地方から北方へ大移動した。1838年にナタールでズールー族(先住民の一部族)との「血の戦い」の後ナタール共和国を建国するもイギリス軍の追撃に敗れ、さらに内陸に移動。1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国しイギリスに承認させたがオレンジ自由国でダイヤモンド、トランスバール共和国で金鉱が発見されると、イギリスが進出し占領。1880年、1899年にはボーア人が蜂起するが1902年にイギリスの勝利で終結した。イギリスは和平のためにボーア人に自治権を与えて、1910年にトランスバール州、オレンジ自由州、ナタール州、ケープ州からなる南アフリカ連邦を設立した。ボーア人たちは新国家誕生とともに「アフリカーナ」を名乗り民族の権利を主張、有色人種に対して鉱山労働法、原住民土地法といったアパルトヘイトのベースとなった人種差別法を立法化、オランダ語を母体として生まれたアフリカーンス語を英語とならんで公用語に定め、経済はイギリス人、政治はアフリカーナが握るようになった。第二次世界大戦後、アフリカーナはアパルトヘイト政策を策定、世界中の非難を受けながらも頑として受け入れず次第に孤立化していった。1989年にフレデリック・デ・クラーク(1936年生 71歳、アフリカーナ・ボーア人政治家。1993年マンデラとともにノーベル平和賞受賞)が大統領に就任し、ようやく有色人種との対話をすすめた。1990年にはネルソン・マンデラ(1918年生 87歳、1952年南アフリカで白人以外で初の弁護士となる。アパルトヘイト政策に抵抗し1962年ロベン島に投獄され1990年釈放、1993年ノーベル平和賞受賞)が27年間の投獄生活の後に釈放され、1991年にはアパルトヘイトが廃止された。1994年には全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙でアフリカ民族会議が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が有色人種初の大統領に就任。ネルソン・マンデラは、一期で大統領を退任し、政界からも引退し現在の大統領ターボ・ムベキを後継者とした。大統領の地位に連綿とせず長期独裁政権になることも自ら回避し、国の方向が誤らないように陰から支援するネルソン・マンデラは世界的にも偉大な指導者と言えるだろう。
    アパルトヘイト政策を採り続けたアフリカーナは、アメリカに入植し先住民のネイティブ・アメリカンと戦闘しながら西部を開拓したイギリス人と同様の歴史を持つがアフリカーナには先住民に加えイギリス人というもう一つの敵があった。迫害と戦闘の歴史の中からアフリカーナにとって労働力の確保だけでなく自分達の自治権と安全の確保のために人種隔離政策・アパルトヘイトが必要であったと想像できる。アパルトヘイトの廃止により白人の有色人種への差別意識が改善されたのかどうかは疑問だが、有色人種の指導者が国のリーダーとなって大多数の国民である有色人種のための政治を行うようになったことは大きな前進と言えるだろう。
     長い期間の人種差別に苦しみ現在も経済問題やHIV感染者問題に苦しむ南部アフリカだが、写真をお願いした人達は一様に明るい笑顔で応じてくれた。豊かな自然や動物を大切にする南部アフリカの人達が今以上に幸せになるように一人一人の明るい笑顔に期待したい。
    (写真はジンバブエの高校生)
    =南部アフリカの旅 完=


    【旅行時期】2005/08/31~2005/09/07
    【エリア】南アフリカ
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】さすらいおじさん